日本に於ける西洋音楽の礎


 現代に於いては検証する事が困難であるが、この当時1582年(天正10年)に天正遣欧少年使節がヨーロッパに渡っている。

これが徹底的な証拠ではないが恐らくはこの様な状況の中に於いてはいずれ其の内日本に、日本人に西洋音楽が移入されるのは時間の問題であったに違いないと思えるのである。


左記の記事は毎日新聞の2018年1月12日のチンドン繁盛記である。

これに由ると明治維新後、新政府は1887(明治20)年ごろまで、陸軍にフランス式軍制を導入した。軍楽隊もフランス人の指導を受け、大太鼓は「ゴロス」と言うようになった。この後軍楽隊は鹿鳴館の舞踊会、園遊会、運動会などの出張演奏に引っ張りだこだった。と記述されている。江戸時代の幕府が武士に於いての西洋化、即ち近代軍隊を組織化したのでありこの時に西洋音楽が正式に日本に移入されたのであろう。

この時に移入された音楽はマーチングであるが、ケイジャンでもある。

では日本に於けるギターの移入時期はと言うと、1901年に遡る事になる。比留間甚八が1901年にギターを日本に持って帰ったのである。恐らくはこれが一番最初に日本にギターが入って来たと思われるのである。

 その後比留間賢八1887年チェロ奏者としてアメリカに留学する。1889年にはヨーロッパに渡り1891年に帰国するがこの時にハーモニカとツイターを日本に持ち帰り紹介している。そして1889年に再びヨーロッパに渡りイタリア、ドイツにてマンドリン、ギターに出会い1901年にマンドリンとギターを持ち帰る。

 そしてこの比留間賢八はマンドリン及びギターの普及に努めこれらの教室を作っている。これが日本国に於いてのマンドリン、ギター音楽の源流ルーツに成っているのは言うまでも無いであろう。時代は移り1957年、来日していたアンドレス・セゴビアが一人の天才を見出した!それが松田晃演である。松田晃演はアンドレス・セゴビアの弟子に成りアリリオ・ディアス、及びフランシスコ・タレガの直弟子のエミリオ・プジョルからも、そしてアンドレス・セゴビアの推薦もありジョン・ウイリアムスの指導をも受けている!

1961年国際ギターコンクールに於いてパパス・プヤナ賞を受賞している。

japanese classical guitarist


1961年パパス・プヤナ賞を受賞した後にシカゴのギタリスト、ジム・ノリスの呼びかけにより渡米してアメリカ全土をコンサートリサイタルへと同行している。演奏会、テレビ、ラジオ等出演している。この時デトロイトではジャズギタリストのウェス・モンゴメリーに合いウェス・モンゴメリーのリクエストによりバッハを演奏している。その後の1969年にはカーネギーホールに於いてのリサイタルによりニューヨークデビューを果たしている。この時日本人が初めて欧米人と対等に音楽的に平等に成ったといえるであろう。尚、松田晃演の愛器は私の大好きなアントニオ・デ・トーレスである。


この写真は、1958年製クラシックギター、製作者は黒澤常三郎氏である。

この個体はアントニオ・デ・トーレスモデルである。その特徴は力木の構造にある。

力木の構造が八の字状に(団扇)なっている。

このギターをクラッシックギタリスト川井善晴先生が演奏していたが、そのピッキング

タッチの素晴らしさもあり、思わず欲しく成ってしまった。

この後に、オリジナルのアントニオ・デ・トーレスを聞く事となる。

 このアントニオ・デ・トーレスこそ今日に於けるギターの原型、礎と成ったのである。



日本に於ける日本人のクラシック音楽からポピュラーミュージックまでのギタリスト

 新宿区四谷荒木町にてが流しをしていらしゃったのであるが、去年平成29年にお亡くなりになってしまった。シンさんこと平塚新太郎である。14歳から60年間流しをしていて、私が拝見したのは晩年の数年前からで四谷荒木町の私の隠れ家という名の喫茶店である。いつも寡黙で、という感じに私は感じていたのだが、威張るとか天狗になる!とかの所謂偉そうな人という感じとは無縁である。亡くなるまで流しをしていて生涯現役であった。流しをする方達が居なくなるなかで最後まで現役で最後の一人に成るまで貫いていた信念の人でもあった。

 私が思うに、この様な方が居たからこそ大衆音楽の底辺を支え今日の日本の音楽産業が存在し得たのであろう。これぞ日本のブルースマンであろう!

 昭和の時代から現代までに於いてその音楽を聴く形態が!アナログレコードからCDに移り今日に於いてはインターネットでの配信と言う形態に移行している!のであるが音楽産業の売上げ高、販売業績は今や頭打ちになっている。CDソフトの売上げ、配信に於いての数字が依然として厳しい状況が続いて、ミュージシャンの間ではライブコンサートをメインに力を入れる様に成ったのである。それでも実績の有る力のあるミュージシャンはメンバーを集める事が出来るが、それでも尚ミュージシャン同志のミュージシャンの奪い合いと成っているのである。実力の有るミュージシャンはその人数絶対数が足りず少子化の影響もあり、人手不足と成っている。そして従来と違いその音楽の多様性化に伴い益々難しい問題となっている。それは音楽を聴くリスナーも同様に多様化によりオーディアンスも分散してしまうからである。そして我が日本に於いてはオーストリア等と違いミュージシャンをその社会的地位を高く見てはいないと云えるだろう。我が日本国は文化的には大変低い国家であると言わざるを得ない。しかしながら各個人のミュージシャンのレベルは高いと云えるであろう。

 我が国は音楽家ミュージシャンの社会的地位をあまりにも低く見ていないのではないだろうか?我々自身がその様に見てしまって無いであろうか! しかしながら我が国日本に於いては私が思うにギタリストの宝庫である!と言えると思うのである。クラシックギター、ジャズギター、ロックポップスギターとジャンルに拘らず優れたギタリストが出現している。


日本人クラシックギタリスト

比留間賢八

松田晃演

伊藤翁介

管ノ又信太郎

小原安正

小原聖子

阿部保夫

阿部恭士

中林淳真

アントニオ古賀

川竹道夫

小松素臣

荘村清志

芳志戸幹雄

田部井辰夫

渡辺範彦

永島志基

新堀寛己

西垣正信

福田進一

山下和仁

川井善晴

 

ソンコ・マージュ

沖仁

 

  日本に於けるクラシックギター

 日本に於けるギターの歴史はクラシック音楽から始まっている事は言うまでも無いであろう。前記の記述から数年後には、以下のように成るのであるが即ち、我が日本に於いてはクラシックギターの流れは二つの潮流が存在する!その一つが阿部保夫であり、もう一つの対立軸的存在が小原安正である。

小原安正は日本ギター連盟を創設し最初のギターコンクールを主催している。現在は東京国際ギターコンクールと名称が変わっており、この第一回の優勝者が前途の阿部保夫である。

 現在の日本に於けるクラシックギター界の開祖であると言っても過言では無いであろう。日本のアンドレス・セゴビアと云えば分かり易いのではないであろうか!

フランシスコ・タレガでラグリマ、ラ・パルマ アルベニスの入江のざわめき

フェルナンド・ソルの月光

 阿部保夫のご子息の阿部恭士に於けるフェルナンド・ソルのアルハンブラ宮殿の思い出である。

 小原安正は阿部保夫とはギターに於ける教育方法が全く異なる阿部保夫は今では普通の指導方法であるが、一方の小原安正は今では考えられないが剣道で使用する竹刀を持って今で言う所のスパルタ式教育である。今日に於ける小原安正




 これは木村好夫の「酒か涙か溜息か」であるが、ここで聴かれるリズムはジャズギターのリズムであり、チャーリー・バードも同様のリズムを刻んでいたと記憶している。

 また1929年古賀正夫が「影を慕いて」を作曲しここから演歌が生まれたのである。所謂古賀メロディーであるが古賀メロディーのバッキングギターは木村好夫であるが彼は元々ジャズギタリストであり演歌とは韓国朝鮮のメロディラインにアメリカのジャズギターのバッキングスタイルをクロスオーバーさせた物であり今で言うならばフュージョンである。